仮想私事の原理式

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「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」は新訳・やり直しの物語

 これは・・・面白かった! まさしく「破」。TV版の「エヴァンゲリオン」を少しでもかじった人は、観て損はない。むしろ得だ。観るべきだ。観れ!


 「序」を観たときは懐かしさと新しく綺麗になった描写にテンションが上がったが、今回の「破」のテンションの上がり様は「序」の比ではなかった。「破」というサブタイトルに相応しいものになっていると思う。
 以下、感想をメモ。

※ここから先、ネタバレあり。

 

浮きまくっている真希波・マリ・イラストリアス

 冒頭(アバンタイトル)でいきなり出てくる新キャラと四脚ヱヴァ。キャラが一人二人増えるくらいのことは「劇場版ではよくあること」だが、その人格が非常にヱヴァらしくない。
 「幸せは歩いてこない」を歌いながらエヴァを操縦し、戦闘中に「すっげー痛いけど、面白いから、いい!」というセリフが出る時点で「お前はサイヤ人か!」と言いたくなるノリノリ戦闘狂。ヱヴァに乗ること、使徒と戦うことを楽しんでいる彼女の様子は、一種の快楽主義者だ。シンジ・レイ・アスカの3人が、ヱヴァに乗らざるを得ないから(と思って)乗っていたのとは対照的だ。「自分の都合に大人を巻き込むのは気後れするなぁ」というセリフが示すように、彼女は自分の都合で乗っている。その彼女が物語に介入してくることで従来のヱヴァの空気が壊されている。壊されようとしている。
 
 …が、どうもヱヴァの物語はそう簡単には壊されないようで、マリの浮きっぷりが激しい。シンジの上に落下してきたり、封印されていた弐号機に誰も知らないうちに乗ってビーストモードになったり、レイと即興共同戦線を張ってATフィールドを喰い破ったりと結構目立ってはいるものの、誰も彼女の影響を受けていない。だから、その浮きっぷりだけが目立つ。
 その不協和音が、「破」の役割なのかもしれない。
  

「ありがとう」と綾波レイ

 「破」で最も変わったのは、綾波レイだったのではないか。
 TV版後半でもシンジへの親和度は上がっていったが、シンジの料理(みそ汁)に心動かされ、シンジや皆のために料理を作り、食事会を企画する程ではなかった。しかもシンジとゲンドウの仲を取り持とうとまでしている。こんなに他人と自分の幸福のために行動するレイはいなかったのではないか。TV版でも献身はあったが、それは「私が死んでも代わりはいるもの」という自己の軽さに端を発するもので、決して自分の幸せまで含んだものではなかった。
 このレイの変化は、「Zガンダム劇場版」のカミーユの変化と同種のもののように思う。「ありがとう」と言えるカミーユになったことで、カミーユは自我崩壊せずに済んだ。同じようにレイも「ありがとう」と言えるようになった。TV版でも「ありがとう」と言ってはいたが、レイはそれを積極的には受け入れていなかったように思う。自らの意思で「ありがとう」と言えるようになったレイは、シンジにとっても皆にとっても「代わりがいる」存在ではなくなったのだと思う。
 どうでもいいが「心がぽかぽかする」発言はきっとネタにされるだろう。
 
 

人に優しくなった式波・アスカ・ラングレー

 TV版の「惣流」ではなく、「式波」と姓が変更。これで女性パイロットの姓が「綾波」「式波」「真希波」と全て「波」で終わるようになった。どのような意味を持つか、いまんとこさっぱりですが。
 時間の都合もあるのだろうが、シンジや周囲の人間に対するアスカの親和の進み具合が速い。これはレイの変化に引っ張られている感じだが、個人的にはとても良い感じで、観てて微笑ましい。しかし、それがまさに死亡フラグだったりするので、非常に居たたまれなかった。

他人の存在を求めたシンジ

 零号機ともどもレイが使徒に食われた際の、シンジ綾波を返せ」→初号機再起動に震えた。「私が死んでも、代わりはいるもの」というレイの有名セリフに対する、シンジの速攻否定「代わりなんていない!」には感動を覚えた。いや、つーか、キャラ変わってない? エウレカセブンの最終回がフラッシュバックしたよ?
 代わりのいない存在であるとしてレイを取り戻そうとするシンジは、他人に怯えて他人を拒絶し、他人を失うことをただ見ているしかなかった以前のシンジとは明らかに異なる。なんとも頼もしい。この時点でシンジが既にその境地に達しているとするならば、次回作以降ではさらに進んだ段階へ行くのだろうか。楽しみ。
 
  

CG

 今回の戦闘シーンではCGも多用されているらしい。特に第8使徒(落下使徒)襲来のときの、各ヱヴァのダッシュに対する僕のテンションの上昇っぷりは最高潮だった。ニヤニヤしてしまった。ただ走っているだけなのに! それほどまでにあのダッシュシーンは圧巻だったが、あれがCGだったとは気付かなかった。すげー。
 

2巡目の世界

 あくまでTV版の総集編的要素が強かった「序」に比べて、「破」では物語全体の雰囲気が変わっている。TV当時のあの鬱々とした感じが薄らいで、「絶望から希望へ」というある種の正統派な雰囲気を醸し出すまでに至っている。TV版でも最終的には現実肯定を着地点にはしていたけれども、現実の惨さ辛さといったドロドロ感をあくまでも引き摺っており、「それでもなお」という強さを要求されているようだった。その点では「破」は観る側に優しいが、エヴァ心酔者には「こんなのはエヴァじゃない!」と言う人も出るかもしれない。
 でも、多分受け入れられるんじゃないかなぁ。いや、むしろTV版のエヴァを知らない人には、僕を含めエヴァ経験者が感じるような感動を得られないんだろうなと思う。過去のTV版を知らずに観れば、シンジは王道ヒーロー路線を行っている、ある意味アニメとしては珍しくない存在として描かれているし、アスカやレイも閉ざした心を徐々に、順調に、予想通りに開いていっている。むしろ今や珍しいくらいの純なストーリーとすら思える(もちろん細かい演出や表現、ストーリー展開など、ヱヴァの面白さは十二分にあるのだが)。でも、それこそが12年前のエヴァでは出来なかったことだった。それがそう易々とは出来ないことなんだ、というのを示して共感をされたのがエヴァだったのではないかと思う。それをこの「破」で変えている。僕らにとっては「あのレイが!」「あのアスカが!」「あのシンジが!」という類の感動・嬉しさが大きい。でも、もし初めてのエヴァが今回の劇場版だったなら、こんなにも心に刺さっただろうか。
 

 さて、もしかしたら「序」の段階から出ていたのかもしれないが、乗り遅れを承知でひとつ。
 赤い海、カヲルの「また3番目か」「今度こそ君を救ってみせる」という言葉、立ち入ることさえ出来ないセカンドインパクト跡地。これらのことから想像されることとして、今回の新劇場版は「Air/まごころを君に」の後にシンジ(とアスカ)によって作り出された、「やり直し」の世界なんじゃないだろうか。
 「Air/まごころを君に」ではシンジとアスカの2人だけが生き残り、他の人間は全て溶けてしまった。せっかく他者との関わりを持って生きていこうと思えるようになったシンジにとって、(アスカがいることはいるが)これは悲劇以外の何物でもない。だからシンジは全てをやり直そうとしたのではないか。
 Wikipediaの記事なんかを見ると「『Air/まごころを君に』の続きはあり得ない」とされているけど、12年経って、庵野さんも気持ち悪くない形で決着を付けたくなったんじゃないかなぁ。トミノ御大みたいに。