仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

本を読む本

 前々から履歴書の「趣味」の欄には「読書」と恥ずかしげもなく書いてきた。もちろん、自分よりも本を読んでいる人なんてそこら中にいることは知っているし、果たして「趣味だ」と公言できるほどの労力を読書に割いているかも怪しいことも分かっている。しかし読書が好きなのも確かだし、どのレベルを趣味というのかも定義されていないから、やっぱり趣味欄には「読書」と書いてきた。
 しかし最近、自分の読書感想の下手さ加減に対する失望と、「自分は本当に本を読めているのだろうか?」「本を読むって、どういうことだ?」と疑問を抱くことがあり、すがるように「読書法」の本に手を出すこととしたのが今回の流れ。
 読書論・読書術の本は実に数多くあるが、最近特に多くなってきたんじゃないかと思う。頭良くなりたいブーム? 迷ったが、とりあえず「古典」「名著」とされるものを読んでみた。

本を読む本 (講談社学術文庫)
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講談社
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「読む」ための技術、力

 本書によれば、読書には4段階に分けられる。

  • 初級読書:文字、文章が読める。字のとおり読んで理解できる。
  • 点検読書:短時間で読むことに重点を置いた、系統立てて拾い読みをする技術。
  • 分析読書:時間をかけて徹底的に読み込む。著者の主張を理解し、自らに取り込む。
  • シントピカル読書:一つのテーマについて何冊もの本を、相互に関連付けて読む。 

 この中で自分が知りたかったのは「分析読書」。点検読書くらいまでは出来るつもりだ(内容を読むと疑わしくなるが…)。ましてや初級読書なんて…と思うかもしれないが、例えば算数・数学の文章問題が出来ない生徒というのは、この初級読書のレベルでつまづいているのではないかと思う。大学生になっても怪しい奴がいるのを観るに、そうバカにできない。

 基本的には教養書、専門書等のある主題を持つ論説文を読むための方法論のようで、小説なんかの読み方を知りたかった自分としては少々気落ちしたが、書かれている内容には小説・文学を読むときにでも適用できるものが多いように思う。


・読むといことは程度の差こそあれ、ともかく積極的な行為だが、積極性の高い読書ほど、良い読書だと言うことを、とくに指摘したい。
・ボールをキャッチするということも、投げたり打ったりするのと同様、りっぱに一つの行為(中略)ボールをキャッチするためには、速球だろうと変化球だろうと、巧みに捕らえる技術が必要だ
・詩を書く人には想像力が必要なのに、その読み手には必要ないと考える。だが、実は読書技術には、「手助けなしの発見」のために必要な技術がすべて含まれているのである。
 キャッチボールの話は分かりやすい。文章が分かりにくい場合、それは書き手側の責任として追求されるべきだとは思うが、本が書き手と読み手の対話の場だと考えれば、対話にはやはり聞き手の「聞く姿勢」も必要なんだよね。

自分の判断


読んでいる間に質問をすること。その質問には、さらに読書を続けているあいだに、自分自身で回答するよう努力すること。
・正しい質問を正しい順序でする習慣をつける。(1:主要テーマ 2;著者の主張 3:真実か? 4:意義は?)
 本に対して質問して回答するプロセスは大切そうだ。「読みの凄い人」は、この質問にオリジナリティがあるように感じる。しかし逆にオリジナリティ過ぎて、的外れだったり独善的な解釈をして「著者は分かっていない」と悦に入っている痛い評者もよく見かける。ある段階までは「型」は必要なんだろうな。


批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する」 意欲的でない読者がつまづくのは、この点である。意欲的でない読者は、内容の分析や解釈を怠ることも多いが、それにもまして判断を怠る。
 これには少々グサッときた。自分がまさに、そういう読者なのではないかと思ったから。自分の感想にいまひとつ価値を見出せないのは、そこに自分の判断、自分の思考、自分の主張が入っていないからなんじゃないか? 

文学の読み方

 ページ数は少ないが、参考になったことを幾つか。

  1. 文学の影響力に抵抗してはならない(積極的受身)
  2. 自分の得た感動の原因となっているものを客観的に述べる。
  3. 文学には論述(知識やメッセージ)が含まれていて、そういうものに感動することもあるが、それは作品以外のものに関心が向いているということ。

 最後のことについては反省させられる。僕は小説なんかでも、物語よりもそこに含まれる知識や思想に魅かれることが多くて、そういうものがない物語に価値を見出さなかったりする。でも、物語の価値ってなんだろう? 

ミス?

 この本(著者)、早計だったり論理的に変だったりすることがある。例えば、ベーコンが


「反論や反駁のための読書はやめることだ。本をうのみにするのも良くない。話のタネにしようとして読むのも感心しない。大切なのは吟味し熟考することである」(p146)
と、本に対して真摯に取り組むことを促す言があるが、これに対し著者は

たしかにベーコンやスコットにも一理あるが、こうまで本を絶対化し、誤った書物崇拝に陥ってしまっては意味がない。
いやいやいや、言っていない。そんなことベーコン言ってない。
 著者のミス? それとも訳者のミス? 編集の都合でカットされた部分があるのか? それともベーコンの著書を読んだら絶対化してるのか? とりあえず本書ないでは論理的に合わない。
 こんな部分が他にもあり、そこをあげつらって著者をバカにしてる評者もいるのが気分悪いが、まぁ論理的に突込みが入るのは仕方ない。

 
 古典であるためか、そんなに目新しいことが書いてあるわけでもない。が、逆に言えば、この時代(1940年代)で既にここまで読書に関して考えられていて、それが現代でも通用するわけだから、これはもうある種の王道だ。本に対する姿勢には参考になるものが多かった。まだ本位外のメディアの中心だった時代の、「本への誠意を持った向かい方」を知ることができる良い本だと思う。