仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

理系アプローチと文系アプローチ

【文系および理系の視点と、論理的思考との関係】
http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/TH/TH184.html

【304 Not Modified「理系と文系」】
http://maname.txt-nifty.com/blog/2005/01/post_2.html


文系的能力と理系的能力は別ステータスであると、私は考える。その中でどっちの色が強いかが分かれ目なのであろう。【304 Not Modified「理系と文系」】 

には共感。

 世の中的には「数学を使うのが理系、使わないのが文系」とする基準を挙げられることもあるが、自分としてはこれは却下だ。上記の記事でも挙げられていたように、経済学や心理学のように文系とされる分野でも数学を使う学問はあるし、なにより数学を使うことは理系の必要条件ではないからだ。というか条件でも何でもないからだ。数学を使わなくても、理系学問は理系たりえる。
 
 では、なぜ理系学問で数学が多用されるのかといえば、理系で重視される規則性・論理性など関係を表記するのに、数学が非常に適していて便利だからだ。いわば数学は「理系の言語学」としての役割を果たしているわけだ。だから、やり様によっては文学を数学で語れたりもするだろう。だからといって文学が理系になるわけではないし、物理学から数式を無くしたからといって、文系になるわけではない。


 数学は理系の言語学と書いたが、では数学と言語学は同種の学問なのかというと、やはり違うと感じる。例えば数学的な集合というのが、ある規則に則った要素の集まりを指すように、数学ではまず規則ありきである。だが、言語学ではまず言語ありきで、その中から部分的に規則として抽出できるものを「文法」として取り出す。だから、文法には例外が多いし、そもそもその言語全体を貫く規則なんてものが無かったりする。あっちこっちで部分的に間接的に繋がっている集合を扱っているのが言語学なのだ…と思う。


 文理の領域の区別としては、どこかで読んだ「理系は世界を対象にし、文系は人間を対象にする」というのが実態に近いんじゃないかと感じる。ただ、「人間」は「世界」に包含されるし「人間」を対象にした理系学問もある(医学とか)。だから「文系は人間の営み(心含む)を対象にする」というところかなぁ。そういう意味では、心理学は心(文系対象)に対して理系的アプローチを仕掛けている学問だろう。ただ、理系学問に求められる規則性・再現性が完全には備わっていないため、文系に分類されている。


 理系的アプローチと言って思うのが、「じゃあ、文系的アプローチって、どんなの?」ということ。
文系と理系の分野区別について扱う対象の違いは何となく分かるけど、学問においてはアプローチの違いというのも重要な部分だ。文系ならではのアプローチ方法があってこそ、「文系人間」なんて表現も可能なんだろうと思うのだ。

 しかし、この文系的アプローチというのが、良く分からない。

 理系的アプローチについては、よく「論理的思考」というのが挙げれる(論理的思考が本当に「思考」なのかは置いといて)。じゃあ文系には論理的思考は無いのか。そんなわけがない。論理性は文理区別とは別問題だ。文系にだって、論理的思考は必要だし、それが無ければ学問として成立しない。論理的思考が、理系に顕著であることは事実だと思うが。
 その他の理系的アプローチとしては、「根拠を知りたがる」「普遍性・論理性を求める」「不明なことについては仮定をするが、あくまで仮定」などの態度が見られる。

 今回、文系学問を思い出してみて、文系的アプローチとして無理やり挙げてみようとした結果、いくつか思いついた。
 それは「文系は、自分の持つ規準・価値観を基に判断をする」ということ。法律家だったら法解釈と自らの倫理観を基に、歴史家は歴史から得られた教訓を基に、思想家は自らの思想を基に、ほとんどの人は自らの経験を基に、判断をする。それら各人の規準は皆それぞれ違う。皆、自分の中では正しいことを言っている。しかし、それが他者とは異なる場合があることも知っている。だから「答えが無数にある」ことになる。

 てなことを思ったら、こちらにもっとカッコよく書いてあった。


自分なりの理論、自分なりの公式を形作り、自分の世界を構築する。
構築した世界の卓越性。
それが文系の優秀さを決めます。
- 再考:理系と文系 - http://blog.livedoor.jp/sebastianus0884/archives/50768303.html

 これが文系的アプローチなのだとすれば、学校でやっている文系科目の中で、文系的アプローチを使うことはほとんど無いのではないかと思う。それをやったら、テストの点数を付けるのは難しくなるだろう。やるのは既にある規準(思想・歴史・文学など)をインプットすること。
 つまり高校生までは、自分の世界を作り出すのではなく、先人の遺した世界をサンプルとして取り込み、自分の世界を作るために下地を整える段階であると言える。


※追記(2009/07/01)

兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違い -院生兼務取締役の独り言-


すなわち、文系と理系の違いは
文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか)
理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実
なのです。

 ほとんど同じ結論が書かれていたので、懐かしく思い、過去エントリにトラバ。
 下記の部分にも、大体は同意だったのだが、


「文系と理系の違いが考えるときの基準に何をおくかで変わるのは何故か?」ということについて考え、その答えは「結局研究の対象となるものの性質によって変わるんじゃないのか?」というものです。つまり、いわゆる文系とされる学問分野で研究されている対象は結論がどう転んでも、その結論が客観的な事実と正しい論理に基づいている限り、研究対象の性質上誰もそれを間違いと言うことができないのではないか、ということです。
 ここで「客観的な事実」というのが気に掛かった。
 要するに「客観的な事実」というのが僕には分からない。いや、世間一般で言う意味は分かるけど、厳密に言えば「そんなものは知らん」と言うしかない。「客観」というのは各「主観」が「他を見て推測して、大体こういう感じなんじゃね?」という、人数分の各「主観」から生まれた「緩い合意」にしか過ぎない。そして「事実」というのも、見た人間の数だけ存在するものだ(これは考え方により違うかもしれないが、少なくとも僕はそう思う)。
 そうなると、「客観的な事実」の時点で既に正しい・間違いの判断の範疇外なのだ。正しい論理があろうと、前提が間違っていたら、その議論に意味なんてない(数学的には仮定が偽の命題はすべて真になってしまうけど…)。その感じがまた文系的だなぁ、と思ったりする。

 「じゃあ、理系の研究対象だって、判断できねーだろうが」と思われる人もいるかもしれないが、そこで理系学問が採用したのが「再現性」なんだろう。誰がやろうとも同じ条件で同じ操作をすれば同じ現象が生じる。そういうものを対象にしたのが理系なんだ。