仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

本の読み方 スロー・リーティングの実践 / 平野啓一郎

 自分企画「読書の仕方を学ぼう」第2弾。サブタイトルにも在るとおり、メインテーマの一つは「スローリーディングのすすめ」だが、僕は「小説・文学の読み方」として読んだ。もともとそこが知りたかったので。最近売り出されている読書術・読書論の本はほとんどが教養書やビジネス書の読み方を主にしたものが多かったから、小説を対象にしたものは貴重だと思う。小説の読み方なんていうのは、「最終的には各人が自由に読めばよい」という通念があるようだから、そんな中で「自分の読み方」を晒すのは勇気が要るなぁとも思う。自分の感性を晒すわけだから。作家ならではと言うべきか。

創造的誤読のすすめ

 ネット上には、色々な本に対する色々な人の感想・書評が公開されていて、自分ではまるで考えられなかった、でも言われてみればその通りかも、と思えるような深い、鋭い、面白いものを書く人がいる(もちろん、つまらない、凝り固まった視点からしか見ない書評も多いけど)。そういうものを書ける人に羨望を感じながらも、一方で「この読みは本当に正しい(作者の意図通り)のか?」という疑問をいつも感じていた。「作者の意図」=「正解」という思い込みがあった。


 そもそも誰も正確には分からないのに、「作者の意図」こそ、「正しい読み方」だとして、他の読み方をすべて「間違っている」とすることは、根拠がないし、また不当に作品の可能性を狭めてしまうことになる。
 そこで、文学の世界では、テクスト理論という、読者の側の創造的な読みをむしろ積極的に評価する立場の批判が一頃流行した。これは、古い立場からすれば、一種の「誤読力」の評価である。(p68)
 そういえば以前、こんなことを考えた。言葉は、必ずしもそれを発した人の意図通りには伝わらない。それは言葉の分解能の限界があるし、言葉とそれが示す内容のつながりは、結局は各人が持っているイメージに従うしかないからだ。
 物語などの作品にも同じことがいえる。世に出されて他人に読まれた物語は、それ単体で独立したものになる。「作者の意図」は物語にとって遺伝子のようなもので、物語に組み込まれて表出もするが、決して物語は遺伝子そのものではないし、表出しなかったり親に気付かれない場合もある。
 さらには、文章には「作者の意図」以外のものも込められていたりするのではないか。精神科医は患者に絵を描かせて、その絵から患者の深層心理を読み取る。それと同じように文章にも、作者の意図の他に、作者の癖や無意識の好悪や思想など、込めようとせずとも込められてしまったものもあるのではないか。そうなるともう、作者の意図を読み取ることが「読みの全て」とは言えなくなる。
 この考え方って、まさしく「テクスト理論」なんでは? 考えは持っていたけど、実行にはまだ「縛り」が掛かっていたということか。

小説の読み方に「正解」はない。「作者の意図を探る」ことは間違いなく有意義だが、必ずしもそれだけに拘束される必要はない。作者の意図を理解しようとするアプローチと、自分なりの解釈を試みようとするアプローチ、常にこの二本立てで本を読み、作品によってはその比重を変える。これが恐らくは、最もスマートな戦術だ。(p158)
 面白い感想・書評を書く人は意識的にしろ無意識的にしろ、このような読みをしているのだろう。もちろん面白い書評を書ける人は、独自のアプローチの方法や、自分なりの解釈を行うための世界観を持っている人が多く、「創造的誤読」をするのも簡単ではないんだろうけど。それでも「作者の意図」」=「正解」呪縛に気付かせてくれたことは、かなりの収穫だった。

スローリーダーと速読家の不毛な争い

 サブタイにもあるように、本書のメインテーマの一つは「スローリーティングのすすめ」であり「速読・多読否定」だ。けっこう辛辣に非難している。


・「量」の読書から「質」の読書へ(p27)
・速読家の知識は、単なる脂肪である。(p34)
・視覚的に記憶した言葉の断片から内容を推論する。しかも、推論さらたところの内容は、かなりの確率で不正確である。これは、信頼性の低い読書である。
・記憶に残りやすいのは、自分にとって馴染みのある言葉や、自分が普段から関心を持っている言葉である。あるいは、トラウマになっている出来事に関する言葉を「無意識」に拾ってしまうかもしれない。しかし、それらはいずれも、読者にとって重要な言葉であり、文脈上、作者が特に強調したかった言葉ではないのである。
 これは随分と世の速読家たちの反感を買ったらしい。僕は速読家ではないし、「無意識」による弊害については面白いと思うが、その他の速読非難にはちょっとクビをひねってしまう部分が多い。
 まず、作者が速読をできない、ということがネックだ。体験してもいないのに速読の効用を批判すれば、そりゃ速読家は怒るだろう。せめて速読家に対して調査や実験を行った結果でもあれば良かったのに。
 あと、「速読家の知識は脂肪」というけど、脂肪じゃない知識って何だろう? 自分で実際に確認・体験した知識? 自分で考えて理解できた知識? 体験を要求するなら遅読も速読も変わらないし、自分で考える作業が必要なのであれば、別に読み終わった後で考えても同じじゃないだろうか。理解の仕方は人によるから一概には言えないが、まず全体の概略を頭にいれるというのは、理解にとって有効なはずだ。
 そう。速読は基本的に教養書・ビジネス書などの「知識インプット」本に向いた読書法なのだ。知識インプット本は読者へ知識・情報を伝達することを主眼とするから、主張を分かりやすく書いてあるし、文脈を追えば主張の大体の方向性は分かる。そういう意味では、本書が主張している「新聞もスローリーティングで」といのはまさに墓穴で、「複数紙を読む」効用というのはむしろ速読・多読側の主張なのだ。そして速読家たちは、小説などの文学作品が、速読に向かないことも承知している。
 速読妄信に対して一石を投じたかったのだろうと想像するし、ただ数を読めばいいと思っている読者に対しての反論として書かれたのだろうけど、本書での速読批判は全体的に著者の速読に対する理解不足が目立つ。

 一方で、これに対する速読家側の反論にも、的外れなものがあったりするんだが。


わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
・速読できる人は遅読もできるんだよ!
・もしも、量「だけ」自慢する人がいるのならダメだろうけれど、多読家は量が質に転換することを知っているんじゃぁないの?たくさん読むから審美眼や目星がつくんじゃぁないかと。
 著者は別に「速読をする人」否定をしているわけではない。「速読」という行為を否定している。「速読できる人は遅読もできるんだよ!」というのは、遅読の効用を認めているだけで、速読のフォローにはならない。感情的になりすぎでは?
 「量が質に転換する」という言葉には納得させられるが、そもそもこの場合の「質」ってなんだろう? 審美眼や目星の付け方と、著者の言う「質」=「読みの深さ」はまた別のもの、それこそ「質が違う」のではないだろうか。「浅く広く」と「深く狭く」はそれぞれ評価されるべきだ(多読家の読みを「浅い」とは言い切れないが、積分値が同じになると仮定した)。

 なんというか、お互い感情的になってんじゃないかなぁ。個人的には面白い有意義な本だった。