仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

(再読)すべてがFになる -The Perfect Insider- / 森博嗣

 森博嗣の小説を読むようになったのは、大学1年の頃から。浪人中の幼馴染が推理小説にはまっており、彼の部屋には古本屋で買った和洋問わない推理小説が山積みだった(勉強しろよ)。僕もそれなりに本好きなので、たまに彼お勧めの推理小説を貸してもらったりしていた(勉強させてやれよ)。その彼が「面白いから」と譲ってくれたのが、森博嗣デビュー作の「すべてがFになる」だった。彼も気に入ったようで、「文庫本で集めるから、これはあげる」ということで大きい版(ノベルズ)をもらった。
 読んでみて、僕もはまってしまい、2作目からは文庫本で買い出した。あれから、森博嗣作品はほぼ制覇している(文庫オンリーだけど)。もう10年経つのかぁ。ガンダムの小説より冊数を越えて、一番多い著者シリーズになってしまった。それでも森博嗣作品の中で上位に位置し続ける作品だろう。






天才の表現


「165に3367をかけるといくつかしら?」女は突然質問する。
「55万……、5555です。5が六つですね」萌絵はすぐ答えた。それから、少し驚く。「どうして、そんな計算を?」
「貴女を試したのよ。計算のできる方だと思ったから…」女は少し微笑んだ。「でも、7のかけ算が不得意のようね。今、最後の桁だけ時間がかかったわ。何故かしら?」
「別に不得意ではありません。7は好きな数字です」萌絵は脚を組んで、気持ちを落ち着かせる。
「いいえ、貴女は気がついていないのね。初めて九九を習ったとき、貴女は、7の段が不得意だったはずよ。幼稚園のとき? もと小さかったかしら? 7は特別な数ですものね。貴女、兄弟がいないでしょう? 数字の中で7だけが孤独なのよ」
 萌絵は確かに一人っ子だった。

 冒頭の西之園萌絵真賀田四季との会合シーンが印象深い。真賀田四季の鋭さもさることながら、西之園萌絵の頭脳も負けておらず、静かながらも激しい攻防を見せられる(「羊達の沈黙」をイメージしてるらしい)。ここで一気に引き込まれた。あの掛け算を確かめたのは、僕だけではあるまい。
 真賀田四季が萌絵の子どもの頃の話(7のかけ算が苦手)をしているのを、読んだ当時は天才ゆえの洞察力かと思っていたけど、シリーズを読んできた今になってみると、「実際に知っていた」という可能性もあるのかもしれない。デビュー作(実際は4作目らしいが)の時点から、四季の物語を考えていたのだとしたら…森博嗣の凄さを感じる。
 これは森博嗣の他の作品にも通じることだけど、森博嗣は「天才」を描くのがうまいと思う。「天才」と言っても色々ある。将棋の天才、バスケの天才、武術の天才……そういった、ある分野における天才を描くのは、比較的簡単だろうと思う。その天才を表すには、例えば通常では困難と思われているプレイを易々とやってのけさせたりすれば良いのだ。普通、天才と呼ばれる人は、その「行動」によって周囲から「天才」と評されるのだから。
 しかし、森博嗣が描く天才は「頭脳」の天才だ。おそらく凡人の思考速度を遥かに超え、思考範囲も超え、思考過程も追跡できず、その思考から創り出される人格も凡人には理解不能なのではないかと想像する。その「天才」を、小説の登場人物として創り出せるのか。正直僕には分からないが、森博嗣の描く「天才」は僕にとっては説得力を持っている。おそらく、森博嗣が僕より格段に頭が良いこと、そして「人格」の表現によるところが大きいんだろう。破格の思考は表現が難しいかもしれないが、破格の人格ならまだ想像できそうな気がする。一応、同じ人間なので。


 それが常人では理解できない天才の発想なのですよ」犀川は肩を竦めて言う。「小さな子供は、母親に反抗して鍵をかける、しかし、すぐ眠ってしまうのです。真賀田博士は、鍵を取り去らなかった。子供に鍵をかけることは許したのですね。でも、子供が眠ってから、ロボットに鍵を開けさせた。僕にはずいぶん自然なこういだと思いますけど…。


キャラクタの魅力

 森博嗣作品にはキャラクタ達の掛け合いが面白さが欠かせない。この「すべてがFになる」で既に顕著。各人がそれぞれ独特なキャラクタを持っていて、それだけでも面白いのだが、各人の特徴を生かしたテンポの良い会話がたまらなく好きだ。森博嗣作品にはキャラクタ同士の会話部分が多くあるし、章の終わりをちょっとくすりとさせる会話で締めることも多い。狙ってやっているんだろうけど、愉快な気分にさせてくれる。


「人間の手と足くらいなら細かく切断して捨てられますね」後ろから萌絵が突然言ったので、犀川はどきっとした。
「西之園君。デリカシィという言葉を知ってる?」犀川は萌絵に言った。
「珍味のことでしょ?」萌絵は答えた。こういった状況における彼女の頭の回転速度は驚異的である。
 思わず、辞書で調べてしまった。これ以来、デリカシィの意味は忘れていない。
 確かに自分にはこういう返しはできないだろうなぁ。「コレ言ってやろう」とネタとして待ち構えているならまだしも、会話の自然な流れの中でパッと検索して言うのは、なかなかに高速な頭の回転が必要そうだ。


「大丈夫です。先生こそ……、お疲れでしょう?」萌絵は脚を組んで言った。
「そうね、マカデミアナッツよりは、ちょっとはましかな……」
少し考えてから萌絵が言う。「マカデミアナッツ? どういう意味ですか?」
「はは、意味はないよ」犀川は笑う。「意味のないジョークが、最高なんだ」
 犀川先生の意味なしジョーク初出。悪意や皮肉や下心のあるジョークよりも、意味のないジョークこそが純粋なジョークであるということかと理解している。少なくとも罪が無い。それを笑える精神が「余裕」ということなんだろう。それにしてもVシリーズまで読み終えた後だと、犀川先生もこんなジョークを言えるように変わったのかと思わないでもない(笑)
 
 そういえば、「原始的人格」の犀川先生は、本作で登場して以来あまり出てこない。「冷たい密室と博士たち」くらいまでだったかな? やはり天才・真賀田四季くらいが相手じゃないと出てくる必要がないのだろうか。

※追記(2009.05.06)
 「原始的人格」の犀川先生については、こちらの感想が非常に納得させられた。「犀川の初恋」という内容も素晴らしい。本文中にも犀川が四季に対して、ただならぬ感情を抱いていることが分かる。この後にも続く犀川の四季への執着とも呼べるただならぬ興味は、初恋という表現がぴったりかもしれない。僕もこういう風に物語を読める人間になりたい(泣)

ネタバレ感想(素敵なラクガキ帖)


 犀川は純粋であることを望んでいる。純粋な部分を守るために、犀川は多くの人格を作った。そしてその純粋な人格を保つために――混ざらないように、他の格もそれぞれ独立・拮抗して存在させている。そのことが結果として、犀川の客観性と指向性を卓越させた。
 しかし、それも最近では薄れてきつつある。そして、そのことを肯定しつつある自分を嫌いになっている。純粋でなくなること、つまり大人になることが犀川には嫌なのだろう。他人とのコミュニケーションを嫌い、自分の好きなこと――学問に閉じこもる。学問への真摯さにより、彼は自分の中の純粋さを保とうとしている。それが四季博士に出会うことで、変わっていく。
 四季は犀川と近い(はるかに天才だが)。同じアーキテクチャを持っている。だから、犀川は彼女に惹かれた。おそらく、四季の中にある犀川と同じような純粋さに惹かれたんだろう。そして、それは犀川にとって「初恋」なのだろうと思う。
 四季との出会いが犀川を成長させた。萌絵を誘ってコーヒーを飲みに行き、彼の恩師、萌絵の父親の話をするのは、一過性のものかもしれないが彼の成長の現われだろう。以後、彼の中の純粋な部分は次第に薄らいでゆく。推理する時の、原始的な犀川も次第に登場しなくなる。しかし、彼はそれを受け入れ始める。それが成長――大人になるということだろう。


思考

 個人的には所々に出てくる「思考」に大きく惹かれている(これを思考と呼んでいいのかは分からないけど)。これらが森博嗣本人の考えなのかは分からないが、共感と驚嘆をせずにはいられない。自分には無かった考え方・捉え方・部分的には禅問答。それを知る興奮と面白さが止められなくて僕は森博嗣作品を読み続けていると言ってもいい。


「そんな見せかけの自然なんかって思う奴がほとんどだろうね」犀川はまた煙草に火をつけた。「だけど、だいたい自然なんて見せかけなんだからね。コンピュータで作られたものは必ず受け入れられるよ。それは、まやかしだけど……、本物なんて、そもそもないこと気づくべきなんだ、人間は……。人間性の喪失とか、いろいろな着飾った言葉で非難されているけど、すべてはナンセンスだね。人間が作った道具の中でコンピュータが最も人間的だし、自然に近い」
 「コンピュータが最も人間的」というのには驚いたけど、考えてみると納得もできる。昔、「自然」ということの意味を考えて、似たよう結論に至ったのを思い出した。つまり「人間が今のようになったのは、それが自然なことだったからだ」ということ。人工物を見て「自然ではない」「非人間的」という人は、「自然」という言葉を「人の手の入っていない、無意識の環境」というような意味で使っているのだろうが、その見方は「人間」を自然から除外している。現在の人間の状態は、人間という生き物にとって「自然な」成り行きであり、それを含めて自然を語らなければ、綺麗事にしかならないのではないかと思う。


「思い出と記憶って、どこが違うが知っている?」犀川は煙草を消しながら言った。
「思い出は良いことばかり、記憶は嫌なことばかりだわ」
「そんなことはないよ。嫌な思い出も、楽しい記憶もある」
「じゃあ、何です?」
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
 この「〜と…はどこが違う?」はこの後のシリーズにも結構出てくるのだが、特に本作のは好き。
 これは、萌絵が無意識的に封印していた両親の事故死時の記憶を思い出したことを犀川に告げたときの会話。このとき数年越しで萌絵は、ようやく両親の事故死を受け入れたのだろう。涙を流す萌絵に犀川は「話せるようになるまで、忘れているんだよ、人間って…」と慰め、上記の会話となる。会話だけ見ると、そうかもね、それがどうしたの?とでも言われかねない意味無しの会話だが、状況を見るとそこに犀川の萌絵に対する優しさが感じられる。

「先生……、現実って何でしょう?」萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」犀川はすぐ答えた。「普段はそんなものは存在しない」
 文庫版の表紙にも印字されている部分。
 現実と夢の区別って、なんだろうね。哲学的には、現実と夢は決して区別ができない。その世界の中での思考しか持てない。まさしく現実とは何かと考える瞬間にだけ現れる概念。


外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。つまり、日本は、液体の社会で、欧米は固体の社会なんですよ。日本人って、個人がリキッドなのです。流動的で、渾然一体になりたいという欲求を社会本能的に持っている。
 この辺は、個人の人格の話の前振りにもなっている。日本人や人格がリキッドだというのは面白くて納得できる話。「いろんな私がいる」って言う人でも、それがきちんと別れている人はあまりいない。「いろんな私」が全部混ざり合って、一人の「私」を演出している。体が一つだからかね?


「そもそも、生きていることの方が異常なのです」四季は微笑んだ。「死んでいることが本来で、生きているのは、そうですね……、機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね」
「バグ? コンピュータのバグですか?」犀川は一瞬にして彼女の思想を理解した。
 この部分は、自分も共感理解してしまう部分でもある。その理解が果たして四季の意図と一致しているのかは分からないけど。自然な流れの中の一瞬の淀み。複数の要因が絡まって偶発的に起きてしまった現象。負のエントロピーの増大。生きている状態というのは、ただ、そういうものなんだろうなと思うことが、たまにある。

動機は不要

 森博嗣作品は好き嫌いが結構分かれるようで、例えば僕が好きな犀川先生たちのスタンス(動機に踏み込まない、無意味だと思っている等)も読む人によっては嫌われるらしい。僕は動機なんて理解できるつもりでいる人の気がしれないのだが…。そういう人は、多分「他人のことも理解できる」と思っている人なんだろうな。
 トリックも賛否両論別れる。本作では僕は犯人の予想は付いたもののトリックは分からなかったが、コンピュータにちょっと詳しい周囲の友人達はタイトルで大体の予想がついたそうだ。確かに森作品には、トリックの概要が分かってしまうものもある(僕はそもそもトリックはオマケ程度にしか読んでいないけど)。その割には「設定が突飛だ」などと言う人もいるのだから、ミステリィファンというのは良く分からない。