仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

死の恐怖について



 死ぬのは恐い。死ぬのが怖い。
 
 小さい頃から恐かった。

 夜、布団で横になって、真っ暗な天井を見てると、かなりの確率で「死」を想像してしまっていた。そうなると、とてもじゃないけど眠っていられない。ガバッと起き上がって、ウロウロと歩き回る。悲鳴を上げたこともある。自分にとって冷や汗モノの想像である。
 最近は、想像がそちらの方に進みそうになったときに、意図的に想像を中断させたり無視できるようになってきたし、想像がそちらの方に進んでしまっても比較的冷静に受け止められるようになってきた(当人比)。悲鳴を上げなくなったんだから、成長したんだろう。

 時々、死の恐怖について、「死に至るまでの苦痛が恐い」という人がいるが、僕はこの意見に対して、今ひとつ共感が出来ない。
 いや、そりゃもちろん苦痛は嫌だよ。想像を絶する苦痛は、人に自ら死を選択させるというし。幸い、そこまでの苦痛はまだ受けたことがないが(受けたら死んでる)。
 しかし、苦痛は確かに嫌なのだが、「じゃあ苦痛を感じなければ、死ぬのは怖くないのか」と聞かれると、答えはNOだった。死に至るまでの苦痛が怖いのであれば、真っ暗な天井から喚起される死の想像なぞ、恐れることはなかっただろう。恐怖の対象はそれ以外にあった。

 小学1,2年生のときに、幼馴染のK君がこう言った。

「人間は生まれる前には、何も感じてなかった。だから死んでも何も感じなくなるだけだ(だから死ぬのなんて怖くない)」
 
 苦痛も何も感じないし、地獄に落ちたりとかもない。生まれる前の状態に戻るだけなのだから全然平気だ、というわけだ。
 もしかしたら周りの大人に聞いたのかもしれないが、小学1,2年生でこのような解を出せるというのは、今思うに、なかなか凄いことなのではないかと思う。一種の悟りに近い。あの頃、死ぬことに対して関心を持っていたのは自分だけではなかったのだなと、妙に連帯感を持ったりした。彼のあの言葉は今でも忘れられない。

 いや、多分、子どもの頃にこそ考えることなんだろう。子どもの疑問は、存在そのものに向けられるから。自分という存在、そしてその消滅である死に関心がいくのは当然かもしれない(永井均の受け売り)。成長するに従って、死について考えなくなる。いや、考えるのだけど、それは純粋な死についてではなく、「死の意味」とか「死の価値」とかいう、ある意味で不純物のついた死を考えるようになる。

 それはさておき、K君の洞察は、小学1,2年生をして「う〜ん、なるほど」と納得させるだけの代物であったと思うが、僕は「それでもやっぱり死ぬのは恐い」と思っていた。
 
「生まれれる前の状態に戻るだけだから大丈夫。一度それを経験(?)してきてるんだから」と言われても、
「そうかもしれないけど、なんか解らんけど、やっぱり恐い」と子どもながらに思った。
「覚えてないのに、経験してるなんて言っちゃって良いのだろうか」とか思ったりもした(「経験」なんて言葉は使ってないが)。

 中学くらいになって考えごとをするようになって、ようやくK君の言葉に対する回答が出せた。
 
 
 自分は、「無」が恐いんだ。
 死に至る苦痛でもなく、地獄でもなく、記憶も、感覚も、思考も、すべてが無くなる、想像すらできない「無」が恐いんだ。
 「生まれる前の状態に戻るだけ」というけれど、その「生まれる前の状態(無)に戻る」ことが恐いんだから、その説明は何の慰めにもならないんだよ。
 
 これを思ってから、少しだけ恐怖が和らいだ。相変わらず恐怖することに変わりはないんだが、恐怖する対象を知った方が、幾分かはマシというところか。

(じゃあ、眠るのは恐くないのか?と思ったりしたが、眠るときは必ず起きると信じているからだ。というより、それはまた別問題じゃないかと思う。結局は観念的な恐怖なのだ)



「哲学の教科書」(著:中島義道)という本の中で、大森荘蔵の言葉が載っている。それを読んで自分の感覚を信じた。


 本当に死ぬというのは、我々の感じでは自分が無くなることです。それも、物が無くなる、消滅する、といったなくなり方ではありません。世界に面している私がいなくなること、したがって私の面している世界もなくなることです。私はそれに恐怖を感じます。
 
 しかし、その死の恐怖と言ったときのその死ですね。死ということを我々が考えるとき、あるいは死に脅かされるとき、私はまだ死んでいないから死や死の恐怖を考えられるのです。と同時に死んだことがまだ無いので、何を考えてよいか確かではないのです。私が持っております死の恐怖の死を私はまだ見定めることができないわけなんです。
 
 …しかもですね、見えないにもかかわらず、なくなるということには冷や汗のようなものを感じます。ですから、これ以上申し上げることはできないんです。(哲学の教科書/中島義道