仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

星の王子さま / サン・テグジュペリ



 最近、よく行く本屋で「星の王子さま」の愛蔵版やら文庫版やらが平積みになっていた。多分、新訳が出たとかの関係だと思う。
 「世界で聖書の次に読まれている本」などと言われているくらい有名な本だが、今まで読んだことは無かった。
 読んでみると意外に短い(手に持った時点で解るが)。いや、もともと童話だし、そんなに長いはずもないのだが、なぜか長い話なんだろうなぁと思っていた。おそらく「王子さまが旅をする」ということは知っていたので勝手に長い話と思い込んでいたのだろう。 文庫版なので持ち運びしやすく、繰り返し読むのにちょうど良い。文中の絵がカラーでないのが若干惜しい気がしたが、この本はコンパクトで何回も読める方が良いと思ったので、まぁトントンだろう、気分的に。


星の王子さま (集英社文庫)
アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ Antoine de Saint Exup´ery 池沢 夏樹
集英社
売り上げランキング: 17140

 この本は時に「大人のための童話」と言われることがある。確かに僕も読んでみて「これは子どもが読んでわかるのか?」と思った。しかし、それならば、僕はこの本を読んで何が「わかった」のだろうか。実際のところ何もわかっていないような気がするし、そもそも「わかる」類のものでもないのかもしれないと思う。

 ストーリーは思っていたより面白い。ある小さい星の王子さまが、同居人であるバラの花との仲がこじれ、居づらくなって旅に出る。いくつかの星を渡り、何人かの大人に会い、最後に地球に来て「私」に会う。そこで王子さまは「私」に、今までの旅の話を聞かせるのだ。 王子さまが出会った大人たちは変わり者ぞろいだが、それをあっさり笑い飛ばせないのは、権威とか見栄とか絶望といった、自分の中に多かれ少なかれ見つけられてしまうものを極端化した姿だからだろう。そんな大人たちが王子さまを悲しい気持ちにさせてしまうのが悲しい。だから「子どもが読んで解るのか?」と思ったのかもしれない。子どもには、あの「嫌味」は通じないだろう。

 しかしながら、王子さまの理不尽さも目に付く。飛行機の故障という死活問題に頭を悩ませる「私」と、そんなことお構いなしで自分にとって大事な問題に頭を悩ませる王子さま。両者のやり取りは面白い。昔、自分もこういう状況があったな、と思い出したりした。王子さまは、やはり子どもで理不尽なんだが、現実的な「物」や「形」や「数」に依らない、キツネの言う「目に見えない」大切さの根本や、絆を持った相手に対する自身のすべきことを自覚していく様子は、まるであるべき大人の姿だ。ラストなんか、王子さまと「私」で、子どもと大人の立場が入れ替わってしまっている。

 そのラストは、なかなか切ない。王子さまは自らの星に帰るわけだが、王子さまの星は「とても遠い」ため「この体はもっていけない」らしい。「重すぎる」からと。そのためヘビの力によって、肉体は捨てて自らの星へ帰る。
 王子さまの「星へ帰る」は普通に考えれば「死」だろう。少なくとも「肉体の死」だ。つまり王子さまの世界は幽体・精神の存在が住む世界ということになる。となると、もともと王子さまには肉体は無かったのだろうか。
 一つ思うのは、王子さまの世界では肉体と心、つまり「目で見える」ものと「心で見る」ものの区別なんてなかったのかもしれないということだ。それがバラという外面を気にする存在に出会い、大人という外面に囚われる世界に住む者と交わることで、王子さまにもその区別が生まれてしまったのではないだろうか。だから、もう一度星に帰るためには、余計に背負ってしまった重り(外面・肉体)は捨てる必要があったのだ。

 王子さまは、自分の世界に生きる子どもの象徴であり、純粋さの象徴のように思える。悲しくも優しい気持ちになれる物語だ。
 


「さようなら」とキツネは言った。「じゃ秘密を言うよ。簡単なことなんだ――ものは心でみる。肝心なことは目では見えない」
「肝心なことは目では見えない」と王子さまは忘れないために繰り返した。
「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」
(中略)
「でもキミは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。きみは、きみのバラに責任がある」



ちなみに、この本を見てからの、本当の最初の感想は、「サンテグジュペリって、カルロス・ゴーンに似ている」である。