仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

形容詞

 形容詞で表現される内容は、すべて「比較」だ。
 「大きい」というのは、何かと比べて相対的に大きいのであり、「絶対的に大きい」という表現はありえない。たとえ、この世で最大の物であったとしても、それ以上の大きさのものを想定できるのだから、それは世界に実在する物の中で比較して、その中で最も大きいということしか言えない。

 形容表現というのは、あるものを基準として、それによる分類を行う表現なんだ。というより、言語自体が分類・分解の機能をするためにあるようなものだ。

 もともと世界はあるがままに存在するだけで、見る側が自身の都合によって、使い勝手の良いように分解した(名前をつけた)に過ぎない。それも厳密な分解ではなく、ある程度の近似的なベクトルを作って、それに射影したわけだ。それが出来る空間なのか解らんのに。

 形容詞が相対的なら、「正しい」という言葉も相対的だ。本来、「絶対的に正しい」ということは存在しない。倫理的な意味でも、法的な意味でも。それどころか、ある行動などが「正解である(適切である)」という絶対的な判断基準ですら、もともとは持っていない。

 …うーむ、何を言いたいんだか。何といっていいのか解らないが、とりあえず。もともと、何も分類なんかされてない。

 しかし、人間はなにかの基準を持っていないと生きていけない。世界に対するバイオス設定がされていないと行動が出来ない。だから、何かを「正しい」と思い込む。多分それが「信仰」だ。


 なんてことを、帰りの電車の中で本を読んでいたら思いついたので、ぐるぐるといじってた。

 
 というか、正確には「思いついた」のではなく「思い出した」。この内容、中学ぐらいから思っているが、これ以上の発展がないんだが。


 …これ書いているときに思ったんだが、形容詞って、本当にすべてが「絶対」を持たないのかな? 例えば色とかは可視光線の周波数によって決定されているんだろうから、「赤」なら「赤の周波数」があるわけで、それが「絶対の赤」になるんかな。でも結局は自分の赤と、他人の赤は共有できないな。つーかそもそも、何を赤いかとするかだって、比較からスタートしてるような気がしてきた。まぁ、人間なんて全部RGBの組み合わせでしか色を判別できないんだし。

 以前に聴いたVRの講義では、人間は純粋なグリーン(G)を観ることができないらしい。緑を感知するための細胞(錐体細胞)が赤や青の光に対しても反応してしまうから(見る世界は全体的に緑がかっている?)。どちらにしろ、生体センサー依存だから、絶対的な赤は、やはり規定できないんかな…




知ったかぶってみた。