仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

何のために生きるのか、生きるための何かなのか


 結構な割合の人が「何のために生きるんだろう?」ということを考えるらしい。
 この問いかけは大別して2通りに分類できるように思う。

(1)「自分」は何のために生きるのか、という「自分の存在理由パターン」
(2)「人間」は何のために生きるのか、という「人間の真実探求パターン」
という2パターン。


 僕の独断と偏見による解釈では、劣等感を強く持っている人ほど、後者に流れやすい。自分に価値を見出せない人は、自分に絶対的価値を持たせるため「人間」に対する普遍的な存在理由、つまりは使命を求めるからだ。
 
 
 しかし、そんなこと、解るはずもない。神様じゃないんだから。


 しかも神様はその目的とやらを人間に教えてくれていない。何か理由があるなら、初めから教えておくべきではないか。多分、そんな「理由」なんか無いんだろう(僕が「神様が人間を救済してくれる」系の宗教を敬遠する理由はこの辺にある)。



 そして考えた結果、これは問いかけ自体がおかしいのだという結論に達した。

 他の生物が何かの理由や使命に従って生きているようには、とてお見えない。仮に本能とやらにプログラムされているのだとしても、それこそ、意識して生きてはいないだろう。虫とか植物とか犬とか魚とかプランクトンとか、こいつらは、じゃあ、何のために生きてるんだ? 生物にとっての最重要事項って何だ?

 それは「生きる」ことじゃないのか? 何故かは解らないが、どうやら生物は命を繋げていくことを最優先しているようだ。

 「何かするために生きる」という問いは間違いで、本来は「生きるために何かをする」なのだ。

 「〜をするために生きろ」と言われたり、「ただ生きてるだけなんて」と非難する人もいるけれど、「ただ生きるだけ」のことが出来ずに死んでいく人間がどれだけいるのか、考えてみればいい。


 そうでなくても、「ただ生きるだけ」というのは、きっととても難しい。多分、人間の意識が「ただ生きる」ということに耐えられないのだ。自我が自身の無意味さに耐えられないから「何か」を欲しがる。
 
 そう考えて以来、「ただ生きるだけでは意味がない」的な言葉に、それなりの理解と共感は抱くものの、ある部分では抵抗を感じるようになった。そんなに、生きることを卑下しなくても、いいんじゃないかな、と。

 そんなことを考えていた中学3年生。



 われわれは言う。「彼は無為の中、その一生を過ごした」「僕は今日何もしなかった」と。

 冗談ではない。君は生きたではないか。それこそ君達の仕事の根本であるだけでなく、最も輝かしいものではないか

モンテーニュ)