仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

道徳を教えるって?



 今日は県庁での面接。
 
 一応、ちょこっとだけ予習していったが、あまり役には立たなかった。やはり、日々の生活で教育に対して意識をはたらかせてないと、こういう面接ではちゃんと答えることはできないんだろう。自分の出来は……うーむ。可もあり、不可もあり。


 でも、それよりも解き直してみた専門試験が大変酷い出来だったことが再発覚した。正解といえる部分が思い出せない。未だに解き方解らんのもいくつかある。かなり情けない。多分ダメだろう。
 
 なんにせよ、一段落。秋田の人とも仲良くなって、メアド交換したし。


※ 先方から「メール教えてください」と言われたとき、実は少しビビッた。自分はどうも「その場かぎりの付き合い」はできるようになってきたが、そこからさらに「これからも付き合い」になると、けっこう腰が引けるようだ。基本的に初対面の人とかと会うときは、「一回限り」を想定しているらしい。だから「これからもよろしく」と言っても、本当にその後に付き合いが発展する例はかなり少ない。そのことに改めて気づいた。


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 面接にちなんで、ふと道徳について考えた。

 最近は未成年の事件なんかが多く取りざたされていて、「命の尊さ」「道徳の欠如」「しっかりとした道徳教育を」と声高に叫ばれる。そのことに関して、異存は無い。TVで「平和の根本は『命を大切にすること』だ」と言ってる方がいたが、その通りだと思う。
 ただ、今回思ったのが「道徳教育って言うけれど、教科書とか説話とかで果たして『道徳』というのは教えられるものなのだろうか? そもそも『道徳』って何よ?」ということ。
 
 ここからは自分の勝手な考えで、また少ししたら考えが変わるかもしれないが、ご容赦願いたい。

 ちょっと昔になるが、「なんで人を殺してはいけないのか」という子どもの疑問に、大人が答えられないという事例があった。その話を聞いたとき、なんで答えられないのか、自分には解らなかった。もしかしたら、回答者たちは道徳的にいけない理由を答えたかったのかもしれない。当時の自分が出した答えは、道徳的な説明にはなっていない。
 要するに、殺しを容認したら社会が成り立たないからだ。もともと生存能力を向上させ、安心して生きるために社会という集団システムを作ったのに、その集団内で殺しが行われては、生存も安心も社会の意義もなくなるからだ。殺す者は、殺されることも許容したことになる。つまり社会外の生き物になる。
 だから殺人を犯すものは、社会から排除されるし、逆にその社会に一切属さない、恩恵を受けないで生きている者には、「殺人はいけない」というルールは適用されない。「殺人」に対して、良い悪いという評価が出来なくなる。「社会で暮らす限り、殺人は許容されない」、これが当時の自分の回答であり、今もあまり変わっていない。むしろ、こんなことはみんな当然のように解っているんだと思っていた。そういう意味では「なんで人を殺してはいけないのか」という問題は、あまりレベルの高い問題ではない。

 しかし、「道徳的にいけない理由」は自分にはうまく説明ができない。何故か? 道徳にはあまり自分の利が結びつかないので、理屈が立てにくいからだと思う。
 
 「善いことをして相手が喜んでくれて、自分もいい気持ちになる」というのはある。特に友人・恋人・家族に喜んでもらえると、自分も嬉しいというのは共感しやすい。だが、相手を不特定一般に広げるのは、理由が弱い気がする。だからこそ、その行動に価値があるとということになるわけだが。しかし、それは困難さ故なのか?

 道徳の時間というと、道徳の教科書を読んだりビデオを見たりして、生徒間で議論をしたりというスタイルを思い出すが、自分はあの教科書には、いつも白々しさというか、押し付けがましさを感じていた。効果無しとは思わないが(自分は無意識に感化されていると思う)、あれで全ての生徒を引き込めるとは思えない。
 というか、教科書のせいというよりは、言葉でいくら「善い事をしよう」「道徳の大切さ」を唱えても、感化できなければ意味がないと思うからだ。道徳で大切なのは知識ではない。

 なんか、また収拾の付け方が解らなくなってきたが、結局のところ、道徳教育するには、道徳的な大人の姿を見せ、それに憧れたり、素晴らしいと感じさせることくらいしか自分には今は思いつかない。
 なんだか、書いているうちに、道徳教育って結局は、僕が書いた内容も含めて言われているような気がしてきた。僕が考えたことって結局は既に言われていることをなぞっただけだったのかもしれない。
 
 まぁ、いいや。自分で納得できれば。