仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

人生の書 〜 <子ども>のための哲学 永井均 〜



暑かったり、急に雷雨になったり。まだまだ夏ですな。
今回は、自分のかなりお気に入りの一冊。


【目次】
・問いの前に 「子ども」のための哲学とは?
・第1の問い なぜぼくは存在するのか(独我論をめぐって/ぼくのほんとうの問題/ふりだしにもどった問題/魂の存在証明とその次のステップ/哲学の終結
・問いの合間に 上げ底と副産物
・第二の問い なぜ悪いことをしてはいけないのか(もう一つの問題/だれも教えてくれなかったこと/まやかしの必要性/ぼくが感じていた問題のほんとうの意味)
・問いの後に 哲学とは?

 小さい頃から、「人間」とか「自分」とか「真実」とかいう言葉に弱くて、それらについて疑問が多くあった。小学6年くらいから中2くらいまでは、そんなことをしょっちゅう考えてたりしたし、「宇宙の始まりは?果ては?」「なんで俺は俺で、あいつはあいつなんだろうか?」「良いこと悪いことの基準は?」「自分ってなんだ?」etc…
 小学生4,5年くらいのときにハマったのが、「なんで、この体には僕が入っているんだろう?」ということだった。「なんで友人のKやAやTでなく、○○(僕の名前)として生まれてきたんだろう?」とか「こいつ(僕自身の体と精神)も、僕みたいなのじゃなくて、もっといい奴が入っていれば、いい人生を送れたかもしれないのになぁ」とか、まさに本で取り上げられている問題だった(ラストのつぶやきは、ちょっと問題が違うけど。『僕』と『精神』がイコール関係になっているのに気付いていない。僕じゃなくても『精神』が一緒なら、多分人生に変化はない)。
 自分の周りでは、そういうことが話題に出ることはなかったけど、自分にとっては他のことより、それらについて知ることの方がとても重要に思えた。そういうことに気づいている自分について、愚かにも優越感すら持ってしまったこともある。実際は、こういうことを考えたことがある人は多いらしい。それどころか「人間誰しも一度は考える問題」とかも言われてたので、実はたいしたことないんだなぁ・・・と後にショックを受けたことを覚えてる。
 しかし、それを知った後でも自分の興味は残っていたので、高校で進路を考える時期には、大学の哲学科に進もうかと考えてたこともあった。

 しかしその一方で、学校や巷の哲学紹介書に書かれている「哲学」には、どうも面白みを感じなかった。特に「〜主義」とか聞くともう嫌で「実証主義とかマルクス主義とかがやりたいんじゃない」と思った(個人的に、「主義」というのは「真実」というのから、かなり離れたものではなかろうかと思う)。自分が考えてみたいことは、果たして哲学という分野でやるものなんだろうか? 結局は将来のことも心配で、哲学科には行くのは辞めた(それに負けず劣らずの現状ではあるが)。

 そんな時期にこの本を見つけて、すぐ買った。提示されている問題が、自分が小学・中学で持っていた疑問と同じものだったから。
 自分が考えたかったことは、こういうことだったんだ!と思った。それどころか、自分が考えたことのずっと先まで進んでいた。結局のところ、僕は問題の途中で立ち止まっていただけで、考えていなかったのだ。だから引きずられる様に読んだ。かなりドキドキしていたのを覚えている。書かれている内容・認識を自分の感覚としてトレースするのに苦労したけど、もう、えらく感動した。これを読んで、哲学科に行かなくてもいいと思えるようになった。別に哲学科に行かなくたって、自分の知りたいことは、自分で考え続けられるということを知ったから。
 あるいは、この永井均の哲学によって、自分の問題にケリを着けられたのかもしれない。つまり考える必要性が、僕自身に無くなったのだ。永井均は冒頭で


 ぼくの思想に共鳴しないで、僕の思考に共感してほしい
と書いていたが、もしかしたら僕は、永井均の思想に共鳴してしまったのかもしれない(そうじゃない、と言える気分もあるけど)。



 ひとことで言えば、哲学とは、何よりもまずする・・ものであって、学ぶのは二の次でいいのだ、いや二の次でなければいけないのだ、と思い始めたというわけだ。(p4)
 
 子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいく・・・・・・・・・・・・・・・まで、けっして手放さないこと、これだけである。(p13)

 一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。でも、その子がどうしてぼくでなければならなかったのか、ぼくはどうしてそいつでなければならなかったのか、ここにはどうにも説明がつかない神秘がある。
(中略)
 そして、もしその永井均はいても、それはぼくではなく、ぼくはいなかったなら、結局、何もないのと同じなのではないか? それは、結局、「無」ということではないのか? だから、永井均がぼくであったことによって彼につけ加わったそれ・・こそが何より大切なものであるはずなのに、その何よりも大切なそれ・・が何であるのかがわからないのだ。それ・・はいわゆる自我とか主体といった、誰もが持つ一般的なものであるはずがない。それ・・はいったい何なのだ?(p43-p44)

 自分にとって、人生の書ベスト5に入る本。「哲学を観賞する」のではなく、「哲学をする」「哲学を知る」ための最良の入門書だと思う。先日の道徳についてとかも、実は結構、この本の影響を受けている。
 最近は、こういう問題をリアルに感じるのが難しくなってきていて、本を読んでも、それに付いて行くために感覚を呼び起こすのに難儀する。昔より、鈍くなってんだろうなぁ……
 この本を読んで以来、自分の中のトップ哲学者は永井均である。


 余談だが、著者の永井先生が勤めている大学に友人が進学していた。彼も、この本については面白いと言ってくれてたので、ぜひ講義を受けてみてくれと頼んだ。
 彼、曰く「話の内容は本のように面白かったけど、 講義を10分早く終わりにすることもできないくらい真面目な人だったよ」