仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

マンガは哲学する / 永井均



 

 台風一過。暑い一日。


 ネットにつながるパソコンを弟にほぼ占領され、なかなか更新の機会がない日々ですが、皆さんお元気でしょうか。
 LAN組むのって、お金かかるのかなぁ…。Windows98なんだけど、大丈夫なのだろうか。LANが組めれば自分の部屋で出来るのだが。
まずはお金だなぁ…。


 著者がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、著者は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、著者は魂の交流を感じる。それゆえ、著者がマンガに求めているものは、哲学なのである。

【目次】
第1章 意味と無意味/第2章 私とは誰か?/第3章 夢―世界の真相/第4章 時間の謎/第5章 子どもvs.死―終わることの意味/第6章 人生の意味について/第7章 われわれは何のために存在しているのか

 永井均著ということ、マンガが題材であるということで、見つけた時に即買いした。もう10年くらい前だ。文庫が出ているとは知らなかった。
 哲学的要素の含まれているマンガを紹介して、それらの問題について考えている。というより、この人なら、どんなマンガにでも哲学的要素を見つけられるのではないかと想像する。「<子ども>のための哲学」よりは広く浅くといった感じだが、その分いろいろな問題を幅広く扱っていて面白い。自分が読んだことのあるマンガもいくつか題材に上がっていることが嬉しくもあり、そのお気に入りがこういう風にも読めるんだということが新鮮でもある。とりあえず、吉田戦車のセンスは凄い。この本をきっかけに、「半神」(萩尾望都)と「鉄コン筋クリート」(松本大洋)の素晴らしさに感動して購入した(古本ですが)。特に「鉄コン」についての解説が心に響く。


 このクロ(主人公)は、もうほんとうはシロ(主人公の相方)を必要としてはいない。
  必要としていないからこそ、いまではクロはシロが本当に好きで、本当に守ってやれるのである。

 一人では生きられないから、一人では不完全だから、お互いの不完全を補い合うから、「だから友達が必要なんだ」ということを謳っている小説やらマンガが多くあるように思う(そうでないものもあるが)。それを見るたびに若干の不快感を禁じえない。友達って、そういうことなのか? それならば自分みたいな何の役にも立たない、人を補うどころか補われるだけの存在は、誰の友達にもなれないんじゃないだろうか。それは何かの役にたつという機能が友達の存在意義ということではないのか? ならば、その役に立つ部分が消えたら、友達ではなくなるのか。それが「友達」なのか?
 本当の友達とは、このクロとシロのような関係ではないか。お互いを必要としない。利害が無い。依存しない。自分の意志で相手を好きになって、自分の意志で一緒にいる。純粋な好意。それこそが友達であるための唯一の条件でないだろうか。

 永井さんの本はやはり哲学の本だけあって、「これがニーチェだ!」や「ウィトゲンシュタイン入門」は買ったものの、自分には難しくて理解しきれていない部分も多い。「マンガは哲学する」は気楽に読める本なので、こんな感じのが増えると嬉しい。それだと、あまり鍛えられないんだけど(^^;。