仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

ネガティブ・プラス

 普段生活していると、自分の気に食わない部分に気付いたりして、自己嫌悪に陥ることも多々ある。
 小狡いとか。周囲の目ばかり気にしてしまうとか。その割には気が利かないとか。
 そういう欠点と呼ばれるものの中には、自分ではどうにも出来ないものというのもあると思う。
 それはもう、その人自身の性質とか人間性とかから出てくるもので、それを変えるということは、「自分」を変えることと同じであったりするようなものが。
 もちろん、自身ごと変えようとする人もいて、それはそれで良いと思う。相当な努力を要する、称賛に値することだと思う。でも僕はいつもそれに抵抗があって、意味を見出せないでいた。そういう「自分の変え方」に何か価値があるのだろうか?  社会的に優とされる、あるいは自分が理想とする能力・性質に自分を変化させる。それは非常に強い意志力の現れだと思うけど、それは同時に自己の否定であり、その強靭な意志力を持っていた自己の否定だ。そこに、なんだか納得がいかない。もともとが変化を嫌う性格のせいなのかもしれないけど。頭脳パンすら嫌いだったくらいだ。

 あるとき、職場でいつも通りの「おれってダメだなぁ」感覚に見舞われた直後に、「でも」と思った。

 でも、これが自分だろ? この自分で生きていかなきゃならんのだろ?
 この小狡くて、要領悪くて、気が利かなくて、他人の目を気にしてしまう自分も、おれの持ち駒のうちだろ?
 だったら、これを利用するしかないじゃないか。
 他人の目を察知して、小狡く立ち回って、うまく事を切り抜ければいい。要領悪くて気が利かない鈍感さで、自分のことに打ち込めばいい。周りからは不評を買うこともあるかもしれないし、なにより自分の理想像から離れ、プライドが傷つくかもしれない。
 でもこれが、「自分を受け入れる」ってことじゃなかろうか?
 自分の全ての武器を使って生きていく。欠点や汚点も武器にして生きていく。 それは、自分の一部なんだから。 これって、実は結構なプラス思考じゃあるまいか。ネガティブからの発進だけど。

 昔読んだ「哲学の教科書」(中島義道)という本に、全ての人が持てる「人生の目標」というのが書かれていて、それが「自分自身になる」ことだった。それはたとえば欠点があったら、欠点を直すことではなく、欠点を伸ばすことだ、と。
 あの本に書かれていたのは、こういうことだったのかなぁ。
 そんなことを思った1年半前。

哲学の教科書 (講談社学術文庫)
中島 義道
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5 良い
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