仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

対治と同治




 もう十年以上前だけど、五木寛之氏の「生きるヒント」という本を読んで、感動した部分がある。
 <同治>と<対治>という思想。もとは仏教の言葉らしい。
 例えば熱が出たとき、氷で冷やしたり解熱剤で熱を下げるのが<対治>。
 しっかり暖めて、それで汗をかかせることで熱を下げるのが<同治>。
 
 悲しんでいたり、絶望している人に対して、「元気を出そう! 気持ちを立て直して頑張ろう!」と励ますのが<対治>。
 黙って一緒に涙を流して、心の重荷を一部でも引き受けようとするのが<同治>。
 
 <対治>は<慈>の心。マイナスとの対立。プラスへの志向。
 <同治>は<悲>の心。マイナスの肯定。マイナスの消化、昇華。

 この同治という考え方を知ったとき、とても感動した。「頑張れ」と励ますことが悪いわけでは、決してない。しかし、人に「頑張れ」というとき、いつも居心地の悪さを感じていた。たいして頑張っていない自分が、他人に頑張れと言うこと。そして結局は、自分は相手を外側から見ることしか出来ないということ。
 (自分は<同治><対治>の思想を、勘違いして理解してるかもしれないので、以下のことが該当するのかは定かではないが、ご了承願いたい)

 夢を持ち、それに向かって進んでいる人を見ると、力をもらえる。成功を説く本は、全ての人の可能性を認め、自分を知り、前向きに進むことで道が開けることを教えてくれる。「前向きに、成功へのイメージと決意を持つことが、成功へつながる」それはきっと事実だ。

 が、その一方で、その言葉が自分の弱い部分をえぐっていくように感じることがある。それらの言動に、当てられることがある。なんとなく、居心地の悪さを感じることがある。なんなんだろうか、これ?

 多分、自分の弱さが拒絶反応を示しているんだろう。自分の弱いところを、かくまっておきたいんだろう。
 ただ、それらの言葉はきっと正しいと、思ってはいるけど、時たま抵抗感を抱く自分がいる。
 本当に正しいだろうか? この言葉に嘘はないんだろうか? プラスを謳うその影で、何かを圧殺してはいないだろうか。プラスに転じられない人間を、「それじゃダメだ」「プラスが良いんだ」「マイナスはいけない」と苦しめたりしてはいないだろうか。それが本当に、その人のためになるのか。そのアプローチで、全ての人が、自分自身に成れるのだろうか。
 
 そう思わずにはいられない。
 
 以上、ただの愚痴ですよ。