仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

無知の知の難しいところ


無知の知
ご存知、かの有名な古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉だ。

ソクラテスアポロン神殿で、「ソクラテスさん、アンさんより偉い男はいませんぜ」と巫女さんから神託を受けたので、「え〜、うっそだぁ〜」と思い、ソクラテスはいろんな人と話をして自分より偉い人を見つけようとした。

 ところがどっこい、世間で「偉い」「智慧がある」と言われている人たちは、もっとも大切なこと(ソクラテスにとって善・真理)について、それほど知っているようには思えなかった。なのに、彼らはそれを知っていると思い込んでいる。一方、ソクラテスは「そのことについて知らない」ということを知っている。
 
「ああ、だからワシの方が賢いのね」

というのが「無知の知」(のはず)


 この言葉を初めて知ったとき、
「知らないことに対して知らないと認識することが大切なんだな」
「謙虚に自分の無知を受け止めることが大切なんだな」
とか思ったもんである。なるほどなぁと。素直なガキであった。

 しかし同時に
「これってそんなに凄いことか?」
「おれだって知らないことは知らないと、はっきり言うぞ?」
とか思っちゃったわけである。ひねくれたガキであった。

 あと、ソクラテスの時代にはソフィスト(詭弁者)という理屈屋たちがいたが、
「おれは『知らない』ということ知ってるもんね。知らない奴より賢いもんね」
というのは、正直、結構な屁理屈なんでないの? とか思ってしまってたわけである。
「ワタシ馬鹿だけど、自分が馬鹿だって解ってるから、あんたより賢いもんね」
と言ってるJKを見ると、“動く棺桶”ボールに乗せて戦地に放り出したくもなるわけである。

#いや、ソクラテス、結構好きなんだけどね。「汝自身を知れ」とか。


……しかし。「無知の知」について、自分は大事なことを認識していなかったのではないかと思いついた。いわば、「無知の知」の無知。

 先日、自分が昔に書いたノートをぺらぺらとめくって読んでみた。馬鹿なことやしょうもないことが沢山書かれていて、赤面モノなのだが、今の自分が見ても「よくこんなこと、考えてたなぁ」と思う内容もあったりする。
 人間誰しも、思春期あたりに政治だとか哲学だとか人生だとか、そういったいろいろなことに対してカブレル時期があるらしいが、いろいろな疑問を抱いて、(偏ってはいるが)いろいろ考えている。
 
 それに対して、今の自分はどうだろうか? あの頃抱いた疑問・疑念を呼び起こすだけでも一苦労している。いろいろな知識・考え方を吸収しようとはしているが、物事に対して、自分から疑問を見出すことが、少なくなっているように思う。(それ、研究を目指す人間にとっては不可欠な能力だべ?)

 以前よりも知識や考え方のパターンは増え、それにより「自分は大抵のことは(知らなくても)理解できる」と思ってしまっているようだ。多分、理解できることは増えたかも知れないが、そのことで安心してしまい、物事の疑問点・問題点を発見する力は鈍くなっているのではないだろうか?


 犬の散歩をしていて、「無知の知」をふと思い出した。
 ああ、「無知の知」っていうのは、「『知らないということ』を認識すること」とか「知らないことは知らないと認める謙虚さ」とか、そういう教えを言ってるのかと思ってたけど(勿論、それもあるだろうけど)、実は、そう安々と出来ることではないんじゃなかろうか。

 「『何を』知らないのか」を知ることが、もっとも難しい、重要なことなんでは無いだろうか?

 時間が経つごとに知らないことは減っていくだろう。勿論、世の中には自分が知らないことが多く存在してることも「知っている」。しかし、知っていると思っていることや、何とも思っていないことに対して、疑問や問題を見つけだすの能力。疑問を抱くことが出来る能力。本来の「無知の知」には、自分の中でだんだん鈍ってきている、その能力こそが必要なんじゃないだろうか?

どうですかね?

え? 当たり前?