仮想私事の原理式

この世はワタクシゴトのからみ合い

納得の仕方の可換性



 最近、今までの自分の考え方や捉え方に飽きてきた。
 今までそれなりに考えて、自分なりの見方とかを得てきたつもりだったけど、どうも知らず知らずのうちにそれに固執してしまっていたように思う。世の中、いろいろな考え方やモノの見方があって、自分のそれも数ある中の一つに過ぎない。それなら、他の考え方とかも受け入れたり、試したりしてもいいんじゃなかろうか。

 そんな風に思ったのは、あまりにも変化の無い自分に、少々飽きたからだ。そのときようやく、今まで使い慣れてきたモノの見方や納得の仕方に固執して、他のものを受け入れなくなってるんじゃないかと思いついた。これは成熟ではない。固執だ。今の自分を成熟と呼ぶには、少々早すぎる。
 
 考え方やモノの見方は、人間性やキャラクターに関わってくるものだから、それらを変えるということは自己否定につながるのかもしれないが、別に自己否定をするつもりは全く無く、「今のでもいいけど、もうちょっと変わってもいいかな」ぐらいの軽い気持ち。
 考え方は自分の意思で変えることが出来る。のであれば、自分の人間性とかも自分で変えられるということだ。

 こう思えることは自分にとっては、それなりに驚きだ。昔はいろんなことに影響を受けて変わっていく「自分」というものの不確かさが不安でしょうがなかったのに。こんなにころころ変わるなら「自分」はどこにあるんだ?とか。「〜を食べると頭が良くなる!」というのも嫌だったくらいだ。「食いもんですら変わる自分って何なのよ?」と思っていた。意識というものが全く信用できなかった。

 ところが今の自分の考えは意識的に、「自分」というものにアプローチして、自分の意識する方向へ変化させていこうと考えているのだから、笑ってしまう。それなりに色々なものに影響を受けたり学んだりしてきたんだろうなと、好意的に思う。
 じゃあ「自分」も実態はどこにある? とか考え出すとまた解らなくなるのだが。今のところ、意識の連続性、記憶、自発性、体、願望あたりが、自分というものを根本的に支えているんじゃにないかなぁと思ったりする(永井均のいう<自分>とは別の意味で)。

 特に「体」は大事だなと最近思う。体というより、表に出るもの、外界とのインタフェースというか。体は勿論のこと、言葉とか、行動とか、スタイルとか、そういったもの。「自分」というと「精神」ばかり考えがちだけど、「精神と体」ワンセットで「自分」になっているんだろうと感じる。「体」が自分に「形」を与える。
 
 そんな、ごく当たり前のコトを改めて思った今日この頃。